通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第2章 松前藩政下の箱館
第6節 箱館の産物及び人口

海産物/昆布の種類/箱館六箇場所の和人

昆布税

鰊漁/鱈漁/鰯漁/鮭漁/鰤漁/鮑漁

戸口の増加

鰊漁   P402

 昆布に次ぐ海産物は鰊であった。しかしその産額は極めて少なかった。従来、鰊の産地は松前西部を主とし、従ってその収税のごときも、1戸に付干鰊14丸(1丸は200本)を徴収したが、東部は薄漁のため半役といって7丸に定められた。この税もその後、享保4(1719)年に改められ、家々の漁獲高の15分の1となり、宝暦3(1753)年、更に改めて船の大小によって課税することになった。同4年またその金額を増し、すなわち、図合船(船幅6尺6寸より7尺5寸まで)金1両、三半船(船幅5尺より6尺5寸まで)金3分、持符船(船幅3尺より4尺9寸まで)金2分、ホッツ船(船幅3尺より4尺9寸まで)金1分とされた。また東部でも茅部辺は比較的鰊の群来(くき)もあって、ここに出塚する者もあり、『松前地方並東蝦夷地明細記』によると、「箱館村、産物十二月より正月まで冬鰊」とあって、この冬鰊は有川村、戸切地村および箱館村などで漁し、今日では、ほとんど来游(ゆう)を見ないが、むかしは相応の漁獲があって特産物にされた。
 鰊の漁具は大網の使用を禁じ刺網のみとした。茅部方面は建網を許したこともあるが寛政2(1790)年に停止し、ただ冬鰊に限り引網の使用を黙許した。

鱈漁   P402

 鱈は箱館地方では冬期にこれを釣り、ことに尾札部、臼尻辺に多く産した。これも従来は乾燥して干鱈で江戸に輸出したが、寛政の初めころから塩鱈で輸出するようになった。塩鱈の製法は腹を割かずに腸(はらわた)を抜き、これをツボヌキといって塩に漬け、その年内に早く江戸に送り新年の用に供した。そのためこれを「新鱈」といった。

鰯漁   P402

 鰯(いわし)は『松前志』(天明年間著)にも「東部此魚多し」とあり、箱館地方の海域でも鰯漁があったことが知られる。しかし従来は、これを漁し、生で販売し、または塩蔵して地方住民の食料に供するに過ぎなかったが、これも寛政年間に入り鰯を目的にして特に漁場を設け、搾(しぼり)粕を製造して肥料として輸出するようになった。

鮭漁   P403

 鮭はこの地方でも所々に若干産獲されたが、その数は極めて少なかった。しかし東蝦夷地産出の鮭が箱館港に集荷され、江戸に輸出されるようになった。

鰤漁   P403

 鰤(ぶり)は晩秋から冬期にわたってこれを漁獲した。『松前志』によれば「冬月東部オヤス・シヲクビ辺殊に多し甚だ美味なり」と見られ、『松前国道中記』には、戸井および尻岸内の産物に「秋鰤」を挙げている。

鮑漁   P403

 鮑(あわび)は尻岸内のムイ島以西に産した。干飽は煎海鼠(いりこ)とともに長崎俵物として出荷されている。
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