| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第2章 松前藩政下の箱館 異国船の出没/箱館の警備 |
異国船の出没 P397−P398 ラックスマンの来航以来、北方問題は、幕府首脳部の間にもいよいよ重大化し、蝦夷地の警備ならびに経営に対して積極的な方策が考えられ始めたが、それに拍車をかけたのは、寛政8年、同9年におけるイギリス船の噴火湾入航であった。すなわち、林顕三編『北海誌料』によると、 寛政八丙辰年八月十四日、英吉利船一般(船体長さ三十間余大砲二十四門 しかも噴火湾の異国船はこれだけにとどまらず、越えて9年ブロートンは一旦日澳門(アモイ)に至って準備を整え、再び北方探検に出発したが、プロヴィデンス号が破損したので、スクーネル船に搭乗、わが国の東海を経て7月19日(あるいは22日ともいう)またも絵鞆に入港し、上陸して薪水をとり、あるいは鍛冶をして釘を造った。乗組員は34人。松前藩では虻田勤番からの急報により、工藤平右衛門、加藤肩吾を遣わし、両人は26日絵鞆に着き、ただちに船を訪れたところブロートンは旧知の故をもって、これを船内に招き種々の図を示し船中を案内したが、藩吏らは前回と全く変わって英船を監視する態度を示したので、万一を憂慮し、努めて出帆の準備を急いだ。藩では、また下国武、新谷六左衛門らに命じて士卒300人を率いて絵鞆に急行させ、更に高橋壮四郎をして堅く渡来を禁じ、もし上陸して不法のことあれば撃退する旨を諭させた。下国らが砂原まで来たところ、英船はその位置を転じ順風を待って閏7月2日帆を揚げて去った。同船は8日津軽海峡に入り、9日福山沖に姿を見せたので、城下では守備を固め、人心は恟(きょう)々たる有様であったが、船はその夜西に向って去り再び船影を見せなかった。 箱館の警備 P398−P399 この飛報が江戸に達すると、9月22日幕府は津軽藩に命じ、一隊の兵を出して箱館を守らせ、同月25日藩主章広は参勤のために福山を出発したが、途中仙台領水沢で江戸留守居役尾見蔵多が老中からの命令書を持参したのに会い、同地から帰藩した。なお11月津軽藩番頭山田剛太郎、目付佐野吉郎兵衛以下557人は、幕命によって弘前を発し、三厩から箱館に渡って警衛に任ずるという、物々しい警戒体制をとっている。以上のように蝦夷地近海の頻繁な異国船の出没に、幕府はいよいよ北方警備の急務なことを悟り、その経営の積極的な推進を痛感するに至り、ついに寛政10年180余名からなる大規模な巡察隊を派遣し、その調査の結果蝦夷地直轄の大方針が決定された。 |
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