通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第2章 松前藩政下の箱館
第5節 北方情勢とロシア使節の来航

ロシア人の南下/赤人ノッカマプに来る

寛政の蝦夷乱/幕府の御救交易

ロシア使節の来航

異国船の出没/箱館の警備

寛政の蝦夷乱   P383−P385


寛政の蝦夷乱要図 「根室市史」より
 しかし、北辺の情勢は決して穏やかなものではなかった。ロシア問題が一応落着し、これから旧に復さんとする折から、またしても勃発したのが寛政の蝦夷乱である。この蝦夷乱は、すなわち寛政元(1789)年5月、飛騨屋久兵衛の請負地である、国後および霧多布場所の一環、目梨アイヌによって起こされた動乱で、その直接の導火線となったのは、藩の足軽竹田勘平が上乗役で国後に到着したにもかかわらず、例年のごとくオムシヤも行わず、たまたま病気中の泊の酋長が運上屋から酒をもらって飲んだところ程なく死亡し、また、番屋から食物をもらったフルカマップの酋長の妻も死亡した。1度ならず2度までも生じた事件に不審を抱き、かねがね請負人の手代番人どもが、ともすれば「おまえらなどは皆殺しにする」といった日ごろの罵詈雑言(ばりぞうごん)、恐喝がついに現実となったものと推量し、アイヌが恐怖と不安と不信にかられ、ついに徒党を組んで爆発したものであった。かくて国後では竹田勘平をはじめとする22人、更に野付水道を越えて目梨に渡り、同地のアイヌを扇動し各地で和人36人を襲殺、また忠類沖に停泊していた、飛騨屋の手船大通丸を襲って舟子13人、合計71人の大殺戮が行われた。変報を受けた松前藩では直ちに番頭新井田孫三郎・物頭松井茂兵衛・目付松前平角以下、総勢260余人の兵を派遣し、首魁30名を謀殺、7名を獄門にして鎮定した。その風評は天下の耳目をひき、そこで幕府では津軽・南部の両藩に対し、松前藩が要求したならば、即刻援兵を差向けることを命じて待磯させたほどであった。
 しかも当時、幕府要路の間では、「彼オロシヤ人、近年邦内を広げしは、合戦攻撃の業をなさず、唯仁を假り恵を似せて人をなづくる事、彼国の奇法にて、あまたの国々を悉く属従せしめたれば、蝦夷人もかたのごとく衰へ、松前家をうらむるよしを伝へきゝ、奥蝦夷地の島々より段々なづけ、既に廿嶋ばかりもおのれが有となし、猶前に記す如く、ヲロシヤ人度々東蝦夷地の内へ渡来し、是を伺ふことしきりなり。」(『休明光記』巻之1)という考え方が台頭していたので、この騒動も背後にロシア人がそそのかしているという風評にも、大きく動かされたらしく、幕府は普請役青嶋俊蔵を俵物御用掛とし、小人目付笠原五太夫を商人に装わせて随行させ、その真相の探知に当たらせた。
 さいわい騒乱は、ツキノヱ・イコトイ・シヨンコなどのアイヌ酋長らの協力によって、早期に解決されたが、問題は、一切を商人である請負人に依存し、住民を省みようとしなかった松前藩の体質にあった。

幕府の御救交易   P385−P386

 老中田沼の失脚後、一時北方警備に冷淡であった幕府の中にも、この騒乱を契機として松前藩を移封し、幕府自らの手で辺境を治めようとの強硬な意見も出るほどであったが、まず松前藩の善後策を見守ることとなり、ただその監督を兼ね模範的な交易を試みる御救(おすくい)交易を行った。それは松前藩が直接または請負人を通じて行うアイヌ交易の一部を、幕府が直接に模範的に行うとしたもので、前節にも述べた通り、かつて天明5・6年の調査の際も、調査を助けるために2隻の商船を建造し、試験交易を行い、成功をおさめた経験に基づくものであった。かくて寛政3(1791)年普請役田辺安蔵、小人目付高橋助四郎、豊田源八郎らは厚岸に至って交易を営み、同5年まで実施し、その成績はすこぶる良好で、後に幕府東蝦夷地直捌(じかさばき)の基礎をなした。
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