| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第2章 松前藩政下の箱館 寛政の蝦夷乱/幕府の御救交易 |
寛政の蝦夷乱 P383−P385
しかも当時、幕府要路の間では、「彼オロシヤ人、近年邦内を広げしは、合戦攻撃の業をなさず、唯仁を假り恵を似せて人をなづくる事、彼国の奇法にて、あまたの国々を悉く属従せしめたれば、蝦夷人もかたのごとく衰へ、松前家をうらむるよしを伝へきゝ、奥蝦夷地の島々より段々なづけ、既に廿嶋ばかりもおのれが有となし、猶前に記す如く、ヲロシヤ人度々東蝦夷地の内へ渡来し、是を伺ふことしきりなり。」(『休明光記』巻之1)という考え方が台頭していたので、この騒動も背後にロシア人がそそのかしているという風評にも、大きく動かされたらしく、幕府は普請役青嶋俊蔵を俵物御用掛とし、小人目付笠原五太夫を商人に装わせて随行させ、その真相の探知に当たらせた。 さいわい騒乱は、ツキノヱ・イコトイ・シヨンコなどのアイヌ酋長らの協力によって、早期に解決されたが、問題は、一切を商人である請負人に依存し、住民を省みようとしなかった松前藩の体質にあった。 幕府の御救交易 P385−P386 老中田沼の失脚後、一時北方警備に冷淡であった幕府の中にも、この騒乱を契機として松前藩を移封し、幕府自らの手で辺境を治めようとの強硬な意見も出るほどであったが、まず松前藩の善後策を見守ることとなり、ただその監督を兼ね模範的な交易を試みる御救(おすくい)交易を行った。それは松前藩が直接または請負人を通じて行うアイヌ交易の一部を、幕府が直接に模範的に行うとしたもので、前節にも述べた通り、かつて天明5・6年の調査の際も、調査を助けるために2隻の商船を建造し、試験交易を行い、成功をおさめた経験に基づくものであった。かくて寛政3(1791)年普請役田辺安蔵、小人目付高橋助四郎、豊田源八郎らは厚岸に至って交易を営み、同5年まで実施し、その成績はすこぶる良好で、後に幕府東蝦夷地直捌(じかさばき)の基礎をなした。 |
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