デジタル版
通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第2章 松前藩政下の箱館
第2節 松前藩の再生産構造と箱館港

駒ヶ岳噴火/亀田の農業

寛文の蝦夷乱と亀田・箱館

元禄の大洪水/箱館港

松前三港/藩制初期の交易

三港の比較

沖ノ口取締

元禄の大洪水   P350−P351

 しかるに亀田の港は亀田川の河口にあり、そのため砂や泥が流出して港を埋め、大船の多くは亀田に泊らず箱館に入るようになって、亀田の住民はしだいに箱館に移転するようになった。ことに元禄15年7月の大暴風雨により、亀田川は大洪水を起こし、畑作物が全滅したばかりか、この年は本州の凶作と相まって米の輸入が乏しく、住民は未曽有の飢餓に困窮した。しかもこれが翌16年6月にも続いて大洪水となり、亀田番所の役宅もなかば流失し、高龍寺の境内は崩れて寺院が倒れ、村内各所の橋梁(りょう)は墜落、民家30戸を流失するという大災害に襲われた。これがため、亀田の住民で箱館に移る者はますます多くなり、その後、宝永3(1706)年には高龍寺、同5年には称名寺も箱館に移った。またこのころ八幡社や、弁財天社などを修造し、泉沢の浄玄寺が移転したことからみても、この災害を契機として、箱館がいかに急激な繁栄をみたかが察しられる。

箱館港   P351


箱館市中図 「蝦夷島奇観」より
 由来、箱館は津軽海峡の中央に位し、箱館山が海中に突出して、常に海水がこれを巡って深く湾入し、あたかも巴のような形をしているところから、後世これを巴港と称するようになった。しかも四時波が穏やかで船を繋(つな)ぐ必要もないため、「綱知らずの港」とさえいわれ、古くから船着場となっていたが、前述のごとく長禄・永正のアイヌ蜂起によって攻め落され、一時全く廃墟と化していた。それが再び脚光を浴びて登場し、寛保元(1741)年には名称は変わらないが、亀田番所も箱館に移されている。この番所が新築されたのは『逢坂氏日記』によれば、寛延4(1751)年で、当時、奉行は酒井伊左衛門であり、亀田郷の名主は逢坂七兵衛であった。
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