| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第2章 松前藩政下の箱館 駒ヶ岳噴火/亀田の農業 |
松前藩初期の箱館地方の中心は亀田にあり、住民の生計は主として昆布の採取や雑漁であったが、なかでも昆布は、この地方の主要産物であった。けれども亀田付近は必ずしも昆布の繁殖が多かったわけではなく、この地の人々は、宇賀昆布の名称で代表されているように、豊かな繁殖地である志海苔以東の海域に出稼ぎして採取したものといわれている。
駒ヶ岳噴火 P347−P348 寛永17(1640)年6月13日、正午頃突然地震とともに駒ヶ岳が爆発して近海に大津波をおこし、たまたま出稼ぎに来ていた昆布取船100艘余と共に、およそ700余人のアイヌや和人を溺死させている。なお、駒ヶ岳の噴火の状況は、噴出が13日から15日の朝まで続いて、焼灰を降らせて闇黒の中にあり、15日辰の刻(午前8時ごろ)やや晴れたが、なお降灰はやまず、その灰は遠く越後方面にまで及ぼし、津軽地方などでは約3寸(9センチメートル)も積ったと伝えている。また、当時各所で盛んに砂金を産し、たくさんの鉱夫がこれに従事していたが、この変災におそれおののき、大挙して、亀田から津軽に逃れ渡ったと伝えられている。 亀田の農業 P348 このように早期亀田の住民の多くは、出稼人で占められ、とかく永住性に乏しかったとみられるが、この地に農業がとり入れられたのも、おそらくは、これら出稼人の定着を求めてのことであったと思われる。すなわち、亀田の農業は本道中もっとも早くから行われたところで、亀田番所の検断(名主)白鳥孫三郎は、南部の出稼者一家に1夫ずつ農耕を強制して開懇に当らせ、これを拒む者があれば一家を追放する制をたてたといい、元禄5(1692)年作左衛門という者が、新田を試作したというのが、記録に現われた本道の水田の始まりである。しかし、この試作は2、3年にして廃止したという。更に享保2(1717)年の著といわれる『松前蝦夷記』によれば、 東郷亀田村より、畑多き所ゆへ馬大豆年六十俵七十俵斗収納申よし。 |
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