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「函館市史」トップ(総目次)
第2章 松前藩政下の箱館
第1節 松前藩成立と亀田番所
蠣崎氏の独立/朱印の制書
徳川の幕下に入る
藩財政と俸禄制度/亀田番所の設置
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藩財政と俸禄制度 P344
かくて松前藩は、蝦夷地の領地を数多の場所に区画して直領地と知行地に分ち、藩主は、その直領地における交易をはじめとし、沖ノ口諸役および口銭、あるいは和人地の一般領民の小物成(こものなり、雑税)、ならびに砂金・鷹などの、いわゆる軽物(かるもの)の専売収益によって藩財政を賄った。なお、アイヌ住民からの貢税の制はなかった。一方、家臣の禄制においては、他藩のように石高制はなく、軽輩のものには蔵米を支給する若干の切米取もあったが、高禄者の知行態勢には、蝦夷地の知行地における交易の独占権を分与した場所制度を設け、知行主である場所持の家臣は、年々交易船を場所に派遣してアイヌと交易し、それを松前や箱館に持ち帰り、諸国の商人に販売して、その得たる利潤によって給人経済の再生産を支えるという、俸禄制度をとっている。しかもこのことは、松前藩の政治的末端組織を蝦夷地全体に及ぼし、家臣が直接その生産地に深く侵入し、藩の封建性を根底から支える生産者としてアイヌ住民を督励し、隷属させたばかりか、その支配権力の強化拡大につながったとみることができる。
亀田番所の設置 P344−P347
このような情勢下に、中世末のアイヌの動乱以来、久しく衰退の一途をたどった箱館地方も、ようやく復活のきざしを示し、松前藩独立のころには、かなりの和人が亀田付近に進出してアイヌと雑居していた。従って慶広は、現状によって和人地を知内川以東亀田まで伸ばし、亀田をもって蝦夷地と和人地の境として、和人地は、これまで雑居しているアイヌのほか来住を許さず、また蝦夷地には、まったく和人の居住を許さない方針をとった。それはアイヌと和人との紛争を避け、取締りを容易にするためで、やがて亀田に亀田番所を設けて蝦夷地への出入者を監督するに至る。
この亀田番所の設置年代はつまびらかでないが、『蝦夷島奇観』によれば「慶長中白鳥孫三郎 奥州盤井郡白取村社家 と云うもの来りしを、松前家へ抱えられ、亀田村に番所を建て近郷を護らしむ」と見られ、また寛永10(1633)年には幕府巡見使分部左京亮実信、大河内平十郎正勝、松田善右衛門勝政が、松前家東端の地として、ここを経由して汐首・石崎まで巡見している。
当時の亀田は、亀田川が貫流して箱館湾に注ぎ、漁業は湾内および湾外に出て行われ、土地も肥沃な沖積土で農業に適し、船がかりもよかった。ことに福山から上磯を経て下海岸六箇場所へ通ずる要衝の地でもあった。のちこれが亀田奉行所となったが、その年代も明らかでなく、元禄2(1689)年奉行職を辞した手代木惣右衛門まで、すでに8代の奉行が歴任しているという。亀田奉行の支配区域は知内以東の和人居住地とされた。
元禄4年藩の覚書によれば、亀田奉行の職責は次の通りである。
覚
一、蝦夷え非分の儀申懸け間敷旨、能々申付くべく候。並びに夷地え盗買船行き候段聞届け候はば、其旨早々松前え申越すべく候。
一、公事訴訟少しも依怙贔負(えこひいき)なく裁許せしめ、其次第具さに申越すべく候。一分了簡儀は、松前へ申遣わし、差図受くべく候。
付、軽き科人追放之節、様子町奉行方まで申越し、相談遂ぐべく候事。
一 切支丹宗門改の時分、念入る様、名主、五人組共へ能々申付くべく候事。
一 博奕賭の諸勝負、堅く法度申付くべく候。並びに盗賊悪党の者これある節は、急度穿鑿を遂げ、其品町奉行迄申越すべく候事。
一 他国舟破損の節、船道具以下紛失これなき様に申付け、船頭水主共へ米等助成せしめ松前へ差遣わすべく候事。
一 昆布取場え、他国より、直に舟来り候はば、人遣わし、其船留置き、様子早々申越すべく候。もし又、松前え商売に運送の船、難風に逢い、其辺へ着岸候はば、様子聞届け、其趣申越すべく候事。
一 亀田より知内まで、釘合船所持候もの改め、町奉行へ断わりなき船は自由に致さざる様に申付くべく候。右の船帰り候節は、松前へ乗来り、切手沖口奉行え相返し候様申付くべく候事。
一 ユウラップ、ヲシャマンベより、海陸荷物持運び候儀、堅く停止せしむる旨、在々徘徊の商人共に急度申觸るべく候。若し違背せしむる者候はば、早々申越すべく候事。
一 他国よりの者、奉行、名主え断わりなく有付け候はば其村払い申すべく候。自然国所分明ならず、渡世の営これなく、様子疑わ敷者、子細相尋ね、町奉行所迄申越すべく候事。
一 亀田村諸所務役、年々遅々なく相納め候様に申付くべく候。並びに新世間に成候者、五年宛諸役赦免せしむべく候事。
一 支配の村村百姓、一人も他村へ有付け間敷候。惣(すべ)て跡目断絶なき様申付くべく候事。
一 昆布時分より早く、新昆布商売候儀、堅く停止せしめ候。
付、五歳も捨置候畑地は新世間の者共にまかせ申すべく候。畑作り仕廻り候はば、面々在所え出、歳を越候様に急度申付くべき事。
一 屋作、衣服、飲食等に至る迄、倹約相守るべき旨、百姓共へ能々申付くべく候事。
一 親類に逢い候とて、他国より来り候者これ有らば、其者帰り候節、松前へ遣わし、相返すべく候。若し当領内の百姓親類に逢うとて、他国へ行き候はば、子細相尋ね、差遣わすべく候事。
一 毎歳、極月、年取商人年季は、金穿(かねほり)其外旅人改申し付くべく候。並びに亀田、知内の中、何方より舟来り候共、間役(まやく)、帆一端に付五十銭宛申付くべく候。流舟の証拠これ有り、其段申披(ひらき)候はば、早々帰帆候様に申付くべく候事。
右之趣急度申付くべきもの也
元禄四歳末四月何日 墨印
誰とのへ
亀田奉行への書付。先達て相渡し候は、文言宜しからず候に付、元禄四歳末四月之を改む。(『福山秘府』)
これによって亀田奉行の職権をみれば、蝦夷地の密交易の取締、訴訟および罪人の処分、宗門の改め、博奕禁止と盗賊等の取締り、難破船および漂流船の取扱、昆布採取に関する制限、釘合船(縄とじ船に対していう)の検査、旅人、商人の取締、他村への移動禁止と新世間者(新家持のもの)に対する特典、倹約の奨励、租税(務役・間役)の徴収等で、なお、当時すでに名主、五人組などの自治協力機関が設けられていたことが知られる。
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