通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第1章 安東氏及び蠣崎氏
第1節 和人の渡来

蝦夷が島/阿部臣の征討と蝦夷の綏撫

和人渡来と蝦夷の歌枕/凶賊の流刑

諏訪大明神絵詞/良忍・日持の布教説

貞治の碑/永享の鰐口

貞治の碑   P322−P323

 また、前編第5章においても若干述べているように、本市船見町の称名寺境内には、貞治6(1367)年の板碑があり、この碑について、安政年間市川十郎の筆になる『蝦夷実地検考録』によれば、次のように記録されている。

 貞治年中の古碑は、宝暦二(一七五二)季壬申八月、大町の榊といへる者の宅の後の崖下に井を掘とき土中より出たり。碑面仏躯(ぶつく)を双(ならび)て鐫(ほ)り、其膝下に各男女の人物を二人刻めり。文に「貞治六年丁未二月日、且那道阿、慈父悲母同尼公」とあり、其碑下より丹塗(にぬり)の小祠、方一尺五寸ばかりの内に、髑髏一頭を入る。又革甲の金具、大長刀、太刀鐔は木瓜、四方に九曜の紋を着たるを出せり。乃(すなわ)ち之を称名寺(当時は現弥生小学校のところ)に収む。其後亦久しく草叢の中に棄ありしを、享和三(一八〇三)年二月朔日、秦檍丸(はたあわきまる、村上島之丞)といふ者、之を捜出して僧侶をして祭らしめ、霊魂を弔ふことを為りと云。
 按に、碑を建し年は貞治六年なれば、其道阿といふ人の亡父母は、蓋(けだし)、鎌倉北条氏の代の人にて、早く此地に来りし家としらる。九曜の紋に依て、後其人を考得ることもあるべし。


貞治の碑納堂

秦檍丸 貞治の碑図(木版画)

 なお、貞治は北朝の年号で、6年は南朝の後村上天皇の正平22年にあたる。この碑面からみて、碑の建立者は浄土系の念仏行人で、相当高い身分の人物が推定され、鎌倉時代ないし南北朝時代には、すでに函館にはこのような名士の移住もあったと思われるが、初期の和人の集団についてはまことに不明の点が多い。

永享の鰐口   P323−P324


永享の鰐口(石崎八幡宮)
 更に北海道における最も古い金石文として、本市銭亀沢町の石崎八幡宮に残される鰐口がある。これには「奉寄進夷島脇沢山神御宝前 永享十一年三月日 施主平氏盛阿弥敬白」と刻まれているが、これは文化10(1813)年ころ、この脇ノ沢の山神社社地から掘出されたものともいわれており、もしそうだとすれば、永享11(1439)年は、室町時代の中期にあたり、当時この地域には、鰐口をかけるような社をもつだけの集落が形成されていたことを示すものである。ともかく函館付近には古くから本州人の足跡が印されていたのである。
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