通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第1章 安東氏及び蠣崎氏
第1節 和人の渡来

蝦夷が島/阿部臣の征討と蝦夷の綏撫

和人渡来と蝦夷の歌枕/凶賊の流刑

諏訪大明神絵詞/良忍・日持の布教説

貞治の碑/永享の鰐口

諏訪大明神絵詞   P321

 当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち、延文元(1356)年小坂円忠の手になる、『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷が千島というのは、わが国の東北に当る大海の中央にあって、そこには日(ひ)の本(もと)、唐子(からこ)、渡党の3種の住民がおり、その中の1島には3類が雑居している。そのうちには宇曽利鶴子州と万堂宇満伊犬という小島もあり、渡党は多く奥州津軽の外ヶ浜に往来して交易している。3種の蝦夷のうち、日の本、唐子の2類は、その地外国に連り、形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽(きん)獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も通じがたい。一方、渡党は和人に似ているが髭(ひげ)が濃く多毛である。言語は俚(り)野だが大半は通ずる。」と記述している。この『諏訪大明神絵詞』の宇曽利鶴子がウソリケシで函館の古名であり、万堂宇満伊犬はマトウマイヌで松前の古称とされている。この宇曽利鶴子をウソリケシと読み、函館であるとすることに疑義をもち、応仁2(1468)年2月、安東師季が紀州熊野神社に納めた、「津軽外浜宇楚里鶴子遍地悉く安堵せられん事」を祈った願文を引用し、「津軽外ヶ浜、宇楚里、鶴子遍地(つるべこち)と読んでいる説もある(『西津軽郡史』『青森県の歴史』)。しかし鶴子遍地なる地名はどこなのか不明であり、鶴子をケシと読むことも間違いはなさそうである。ウソリケシの語原はアイヌ語で、ウソリはふところ・湾・入江を意味し、ケシは彼方・しもてを意味している。函館はむかしはウスケシ(宇須岸)といい(『新羅之記録』)、ウスリケシが訛(なま)って使われたものである。しかも『諏訪大明神絵詞』は蝦夷が千島の物語であり、それに出てくるウソリケシ、マトウマイヌの地名は函館・松前と見て誤りはなく、これら北海道の南部の渡党と呼ばれる人々は、すでに国史に初見される以前から、津軽海峡を越えて奥州外ヶ浜に往来し、盛んに交易していたことが証明される。

蝦夷に関する最古の絵 「聖徳太子絵伝」より(茨城県那珂町 上宮寺蔵)

良忍・日持の布教説   P322

 従って大治年間(1126〜1131)融通念仏の祖、良忍が布教弘法のために函館に杖を休めた(『箱館夜話草』)ということや、日蓮上人の高弟日持が異境の布教を志し、永仁3(1295)年正月駿河を発して蝦夷地に渡り、函館山の頂上に題目を大書した鶏冠形の巨石を残し、石崎に庵を結び数年間ここにとどまったという遺跡が伝えられているが、いずれも来道を証明する確かな史料がなく、その真偽については断定できないけれども、仮にこれが伝説であったとしても、相当に古い時代から函館には、仏教文化の伝来があり、これを信仰の対象とした人びとが、少なからず移り住んでいたとみることができる。
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