| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第1章 安東氏及び蠣崎氏 和人渡来と蝦夷の歌枕/凶賊の流刑 |
和人渡来と蝦夷の歌枕 P320 その後、和人の渡来もいよいよ多く、ことに延暦年間(782〜805)以降、天喜、康平、文治における奥羽兵乱の際、戦いに破れてのがれ渡るものや、北陸道の辺りから、産物交易に通い、後永住した者もあったと伝え(『蝦夷島奇観』)、しだいに和人との接触がはげしくなると、辺境の蝦夷の風聞が京の文人の間にも注目をひき、平安の後期に著わされた、『久安六年(1150)御百首』にも、えぞが住む つかろの野べの 萩盛(はぎさかり) こや錦木の 立てるなる覧(らん)(尾張守藤原親隆朝臣) と詠まれ、また、久寿2(1155)年66歳で没したといわれる、藤原顕輔の歌にも、あさましや 千島のえぞが 作るなる とくきのやこそ 隙はもるなれ(『夫木和歌抄』) とあって、とくきのやとは毒気の矢で、アイヌの使うブシ矢であるといわれ、建久元(1190)年73歳で寂滅した、西行法師にも、いたけるも あま見る時に なりにけり えぞが千島を けぶりこめたり の歌が見られるように、この異民族に関する知識が、ようやく都の人々にも知られはじめている。凶賊の流刑 P320−P321 文治5(1189)年源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討伐すると、その勢力は津軽に及び、北海道をますます近いものにした。鎌倉幕府はこれを夷島(えぞがしま)と呼んで、建保4(1216)年には、京都東寺の凶賊以下強盗海賊の類50余人を、奥州に遣わして蝦夷地に放ち、文暦2(1235)年にも、夜討強盗の張本人を断罪し、枝葉の者は関東に集め、蝦夷島に放流することを六波羅に達している(『吾妻鏡』)ということも見られ、和人の来住は歴史的にも明確にされている。 |
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