通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第1章 安東氏及び蠣崎氏
第1節 和人の渡来

蝦夷が島/阿部臣の征討と蝦夷の綏撫

和人渡来と蝦夷の歌枕/凶賊の流刑

諏訪大明神絵詞/良忍・日持の布教説

貞治の碑/永享の鰐口

蝦夷が島   P319

 北海道は古くは渡島(わたりしま)、あるいは越度島(こしのわたりしま)ともいわれていた所である。ここに住む民族は蝦夷と呼ばれていたところから、近世に至っては蝦夷地とか、または蝦夷が島と称され、自らをアイヌと呼んでいた人々が住んでいた。このような蝦夷地の函館周辺の人々が、津軽海峡をへだてた本土方面の人々と交渉をもつようになったのはいつころからであろうか。いまそれを明らかにする文献はないが、両地をへだてる海峡はせまく、古くから往来があったことは、前編に述ぺたように古代出土の遺物から見て、ほとんど同じ文化圏に属していることによっても察せられる。

阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫   P319−P320

 そもそも蝦夷地が渡島の名で日本の国史の上にあらわれてくるのは、7世紀の中葉で、すなわち、『日本書記』の斉明天皇5(659)年、阿倍の臣の遠征が記録され、その時「問菟(トピウ)の蝦夷胆鹿島(イカシマ)・菟穂名(ウホナ)の二人進みて曰く、後方羊蹄(シリベシ)を以て政所(まつりどころ)と為す可し、胆鹿島等が語に隨いて、遂に郡領を置き帰る」とあり、北海道に政庁をおいたと伝え、松浦武四郎は後方羊蹄をいまの「しりべし」の地名に比定しているが、いまだ確証があるわけではない。その後も律令国家による征討がくりかえされ、持統天皇10(696)年3月の条に、越度島の蝦夷伊奈理武志(いなりむし)と粛慎(みしはせ)の志良守叡草(しらしゆえそう)とに錦の袍袴・緋紺の(あしぎぬ)、斧などを賜わっていることが記され、奥羽と同様北方の住民の綏撫(すいぶ)が盛んにはかられ、その効果があらわれたのをみて、和銅5(712)年9月には、従来蝦夷地は越国守の管轄下にあったが、この時越国から出羽国に分け、蝦夷地をその国主の管轄下に置くようになった。また養老2(718)年8月には、出羽および渡島の蝦夷86人が上京し、馬千疋(10匹の誤りか)を通貢した記録が見られるが、古代渡島の蝦夷に馬を飼育した形跡がないから、おそらく出羽産のものであろうといわれている。次いで『続日本紀』の、養老4年正月の条によると「渡島津軽の津司従七位上、諸君鞍男等六人靺鞨(まかつ)国に遣わし、その風俗を観せしめた」とあり、この渡島津軽津の所在地が両者いずれの地をさしているかつまびらかにしないが、しかし、すでに両地を結ぶいずれかの港に、役所が置かれるまでになっていたことを物語っている。
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