| 通説編第1巻 第2編 先史時代 |
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第3章 函館の縄文文化 亀ヶ岡式土器 |
亀ヶ岡武士器 P259−262 縄文土器の中で精巧な技術を生み出した亀ヶ岡式土器は、華麗で多様な器形を持っている。数世紀の間栄えたこの土器は、器形にも文様にも移り変わりがあって、それぞれ作られた時期について編年的細分がなされている。この土器の分類を最初に集大成した山内清男は、大洞貝塚の発掘結果に基づいて大洞B式、大洞B−C式、大洞C1式、大洞C2式、大洞A式、大洞A′式と6形式に編年した。A・B・Cの記号は発掘地点の記号で、Aが古いという意味ではない。この形式別編年は他の縄文晩期の土器との対比にも用いられているが、その後芹沢長介は古い形式の大洞Bと大洞B−C式にはさほど時間差はないとして、岩手県二戸郡金田一村の雨滝遺跡の名称を冠して雨滝式と改め、5形式の編年を発表した。
大洞C2式の土器は女名沢を始め市内では豊原、高丘、榎本、桔梗の各遺跡、上磯町久根別、添山、南茅部町大船、木古内町札苅などで出土しており、この時期になると遺跡も次第に増える傾向がある。この形式は日本海沿岸や噴火湾沿岸にも伝播し、勇払郡や夕張郡にまで分布圏が拡大している。これらを見ると体部全体にあった文様帯が簡略化され、]字文や大腿骨文が変化して雲形文、流水文となり、平行する沈線文が多くなる。文様の簡略化と共に、多様化していた器形も特殊なものが見られなくなってくる。大洞C1式が装飾化の時期とするならば、大洞C2式は実用化の時期でもある。長頸の花瓶形土器、水盤形土器、注口土器といった装飾的な特殊な器形の土器がなくなり、壷、鉢、高杯形でも装飾的でない器形の土器が多くなる。壷は頸部と肩部がはっきりと分かれ、胴部が丸く張りのあるもの、鉢は山茶碗形のもの、高杯は山茶碗形で台付のものである。文様や装飾文は口縁部に平行する沈線文を付けるか無文帯を残す程度である。しかし、遺跡によって体部に施された縄文に変化が見られるものがある。普通体部の縄文は細かくて全面に施されているが、よく注意して見ると縄文の条が斜行している。これは縄文の原体を上から下に、または横に回転しながら施文するために撚りが斜状になって施文され、それが縦走しているのである。縄文の条を縦走させるようにするには意図的に縄の原体を斜行しながら回転して行かなければならない。縄の条は上部から底部まで続いている。何の変哲もない施文技術の変化ではあるが、この施文技術は縄文時代が終わってからも引き継がれて行くのである。この条が縦走する土器群に、櫛状工具で縄文に似せた条痕文を器面に施しているものもあるが、次の時期には引き継がれていないようである。 亀ヶ岡式土器の終末は、青森県など東北地方で大洞A、A′式や砂沢式と呼はれている形式である。北海道の南部や東北地方では、この土器形式が縄文土器の中で最も新しいものとなる。この形式の前までは大洞C2式のように東北地方や北海道南部で同じ形式の土器が分布するが、この終末期になると工字文や山形の沈線文という共通する文様がありながら、地域的傾向を帯びるようになり、岩手県、青森県、函館周辺、尻岸内などではそれぞれの地域で特色を帯びるようになる。昭和26年に市立函館博物館が七飯町の武佐川遺跡を調査したが、その上層から大洞A′式の浅鉢形土器が出土し、そのすぐ下から工字文と変形工字文のある土器群が出土した。これは大洞A式、砂沢式とは異なるもので、その後これと類似の土器群が尻岸内町日ノ浜遺跡から出土して、日ノ浜式と呼ばれるようになった。北海道では、いまだに大洞A、A′式や砂沢式が単純遺跡として発見されていないことから、武佐川や日ノ浜遺跡のように地域的特色を持った形式が存在したのでないかと考えられる。また、終末期の形式でこれらと異なるものが函館の見晴町で発見されている。 |
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