| 通説編第1巻 第2編 先史時代 |
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第3章 函館の縄文文化 集落と墳墓 |
集落と墳墓 P256−P259 女名沢遺跡は汐泊川の中流域の河川段丘上にある。川の流域は低湿地で水田になっているが、遺跡のある段丘は比高10メートルほどで川に面している。昭和27年3月13日に函館土木現業所の汐泊川護岸工事中に遺跡の段丘が崩され、住居址の一部が現われた。現場における調査によってほぼ3分の1だけより残っていなかったが、隅丸に近い円形の竪穴住居で、直径が推定5、6メートルある。外壁に太さ21センチメートルから25センチメートルと、15センチメートル前後の柱穴が約50センチメートル間隔で並び、住居内に放射状に柱の炭化材があった。これは柱と屋根が焼け落ちた際のものである。竪穴は黄褐色粘土層を約75センチメートルも掘り下げ、床には2、3センチメートルの厚さに川砂を含む粘土を敷き詰めていて、床面は固く踏み固められていた。柱穴には太いものと細いものがあり、太いのは一部しか残っていないが、恐らく住居の四隅にあったのではないかと考えられる。住居の形や柱の位置など時代や地域によって異なるが、この時期のものは発見例が少なく、外壁に沿って等間隔に柱を配列してあったことと、床に粘土を敷き詰めたのは女名沢遺跡の住居の特質とみてよい。床面は水平であるが、傾斜地であるため竪穴の深さは一方が75センチメートル、他方は41センチメートルであり、また、北側の住居壁は深いだけでなく、床面が広がり、横断面がフラスコ状になっていた。
札苅遺跡は海岸に面する丘陵上にあって、国道改良工事によって南側が崩されるため、北海道開拓記念館が緊急発掘調査に当った。住居址は工事で崩された南側にあり、円形の竪穴式であった。この住居址に接して北側に1基の直径1メートルほどの楕円形墓壙の密集した墳墓群があり、墓壙の上に小石を盛っているものが多い。副葬品には土偶、土器などがある。各墓壙は同一時期に作られたのではなく、時間的な差があって個々に性格を持っているようであり、久根別遺跡にもこれに似た傾向があった。久根別駅の北側に海岸線と並行する低い丘陵が東西に延びているが、この丘陵に久根別遺跡がある。低湿地に囲まれたこの遺跡は、女名沢と同じように昭和初期から亀ヶ岡式土器が出るので知られていた。丹(に)塗りの土器や土偶などが発見されているが、昭和45年に砂利採集のため破壊されてしまった。上磯町教育委員会と町郷土史研究会が前年から調査したが、遺跡の主要部はブルドーザーで剥土され、充分な調査はできなかった。しかし、剥土されたあとを精査した結果、黒色土が、ほぼ円形に残って丘陵の南側に群を成しており、数本の石鏃と土器片がこの黒色土から出土し、土偶も、やや離れた場所で発見されたが、この墳墓群も札苅の墳墓群と同様な性格のものでないかと推察される。 女名沢遺跡は舌状に張り出した丘陵一帯に土器片と石器類が散在しているので、丘陵全体が集落であり、かつまた墳墓群であった可能性が強い。縄文後期の日吉遺跡で族長のものと思われる墓が小高い位置にあり、それよりやや低い位置に集落があったのに比べて、縄文晩期の墓は集団化の傾向があり、墓地と集落が、ほぼ同じような位置に立地されていたようである。 札苅では住居址の近くに窪(くぼ)地があって土器製造跡が現われたともいわれているが、縄文時代の遺跡で土器を製造した跡は、いまだにはっきりしていない。縄文文化の終末期とも言えるこの時期の集落構造は、まだ部分的にしか確認できていない。集落遺跡が河川流域の丘陵に立地していることから、鮭、鱒の漁労や、狩猟と関係のあるところに集落が形成されていたのでないかと考えられている。 |
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