| 通説編第1巻 第2編 先史時代 |
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第3章 函館の縄文文化 貝塚の分布
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貝塚の分布 P224−P228 函館において貝塚はどのような所にあったのであろうか。ジョソ・ミルンやエドワード・S・モースが来函して貝塚を調査し、日本石器時代論を唱えたことはすでに述べたが、函館での貝塚への関心は明治11年これら外国人による発掘に始まる。ミルンやモースが発掘した貝塚は函館山の麓で、現在では面影すら見られないが、函館公園内の貝塚出土の遺物、青柳町貝塚出土の遺物が今も市立函館博物館に収蔵されている。昭和7年の『函館古譚石器時代付図』によれば函館公園貝塚は八幡宮裏参道から谷地頭にかけての位置にあった。当時は裏参道から市立函館樽物館、同図書館付近一帯が遺跡であり、貝塚はその一部にあった。函館公園から西へ約100メートル坂を下ると亀井勝一郎の文学碑を囲む小公園があり、ここから宝来町に下る坂をアサリ(蜊)坂と呼ぶが、これは貝塚のアサリの貝殻が一面に散らばっていたところから名付けられたものである。この貝塚は坂下の天祐寺境内にまで広がる規模の大きな貝塚で、近年まで道路上に貝塚が散らばっていたのが見られた。天祐寺境内の貝層は昭和34年11月本堂新築工事の際に発見されたが、保存状態が極めて良好で厚さ44センチメートルの純貝層に、獣骨、鳥骨、魚骨と土器、石器、骨角器などを含む典形的な貝塚であった。青柳町貝塚というのは昭和6年ころ青柳町1番地の道路で発見された貝塚で、現在の函館護国神社前の坂から西側にあった。馬場脩の『北方郷土』に、″青柳町の旧堀川小学校高台にも貝塚をとどめている″とある。市役所末広町分庁舎の坂を上がった旧曙町でも、建物の改築工事や道路工事の際に貝層が発見され、これまでに石で囲んだ住居の炉跡や土器片が出土している。青柳町貝塚はかつてアサリ坂貝塚と共に山麓部に広く分布していた。これらの貝塚は函館山山麓の北向き斜面にあって、それぞれ3、400メートル離れ、比較的大きな貝塚が3か所に分かれて発見されているが、各の貝塚がどのような規模で分布していたか、今となっては正確には分らない。このほか函館山の対岸にほ湯川貝塚、煉瓦(れんが)台貝塚、赤川貝塚、桔梗サイベ沢貝塚があり、それぞれが約4キロメートル以上も離れて存在する。このうち湯川貝塚と煉瓦台貝塚は、貝殻の堆積面が大きいものと、小さな幾つかが群をなしているものとがあり、地上に現われていた。赤川貝塚と桔梗サイベ沢貝塚は地上に露出せず、遺物包含層の間に貝層となって埋蔵されていた。湯川貝塚ほ、湯川町2丁目の湯倉神社裏にあって、昭和30年ころまでは畑地や牧草地に分布する様子が見られた。このあたりは日吉段丘の南端で標高が15メートルである。遺跡は東側に湯川が流れており、西側が通称産業道路によって削られ、北側の旧戸井線までの間の約150メートルの範囲にあって貝塚が分布していた。露出していた大きな貝塚は、平坦地から東側の傾斜地にかけて長さ50メートル、幅20メートルあまりあり、その西側と北側に径10メートル前後の貝塚があった。小貝塚を含めて合計4つの貝塚が見られたが、実際には表土などで埋まっていたものもあったであろう。試掘した時の記録から貝塚と遺物包含層の状態を記すと、上層は畑作によって撹乱されていたが、貝層は約40センチメートルまでが純貝層で、ハマグリ、アサリ、タマキビなどの貝と鹿の骨が混在し、地表下80センチメートルまで遺物包含層が堆積していた。包含層からは後述する余市式土器や石器類と骨角製の針や箆(へら)が出土している。この貝塚もすでに住宅が建てられ、工事中に石で囲んだ炉や石皿が貝塚の近くで発見されたというが今は見ることができない。
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