| 通説編第1巻 第2編 先史時代 |
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第3章 函館の縄文文化 縄文文化の起源 |
縄文文化の起源 P185−P188
尖底で貝殻文の土器は、関東地方などでもかなり発見されるようになって、尖底のなぞと縄文文化の起源についていろいろ考えられるようになった。不安定な尖底土器について、フィリピンの原住民であるイゴロット族やオーストラリアの土人などの使用法や製作法も調査されたし、シベリアやカムチャツカの土器についても研究された。これらから尖底土器の用途は煮炊き用の器であり、粘土を縄のように細くして輪を積み重ねるようにして底部を最後に仕上げるなどの事柄がわかってきた。野外で炊事をする時、底の平らな土器より尖底の土器がより早く煮炊きできるし、カマドが発達していなかった時期は、河原石などを集めた簡単な構造の炉で煮炊きができた。このことは住吉町遺跡や横須賀市夏島貝塚で簡単な石組炉が発見され、夏島では礫を敷いた炉の中に尖底土器が刺されたままの状態で発見されるなど、煮炊きを証明する資料も増えてきた。では、土器はどのようにして出現したのであろうか。 煮炊き用の容器ができるまでは、動物の皮や植物の繊維で袋やかごなどが作られていた。発明の動機に、先史時代人が編みかごの容器に粘土を塗って焚(たき)火のそばに置いたところ、かごが焼けて粘土の硬化した容器ができ上がったからでないかという説がある。これはアメリカ・インディアンの土器作りからヒントを得たもので、インディアンは縄や柳の枝で編んだかごの内側に粘土を塗って乾燥後、使用に堪える硬さまで焼いて作っていた。類似の製法は北米西南部のクリフドウエリングの岩窟居住人が、かごに粘土を塗って乾燥した土器を使用していた例もあった。 住吉町遺跡では、つまみのある石小刀と多量の石錘(すい)が出土している。つまみのある石小刀について、馬場脩はアリュート人など北方民族が、海獣などの生肉を食べるのに用いるナイフに似たものであると見、紐(ひも)を付けた個人用の肉切りナイフでないかと考えられたこともある。多量の石錘については、当時漁労の方法として漁網が使用され、偏平で小形の自然石の両端を打ち欠いただけの石錘は、網の長さにもよるが、その錘石であったと考えられている。この石錘は、住吉町遺跡など縄文時代早期の貝殻文尖底土器が出土する遺跡からは多量に出土するが、それ以外の遺跡ではほとんど出土することがない。
それが、昭和25年になって芹沢長介らの横浜市大丸遺跡調査で貝殻文尖底土器より古い撚糸(よりいと)文の尖底土器が発見され、縄文文化の起源が再検討されることになった。このころから日本列島の各地で考古学上の発掘調査が活発になり、縄文文化の編年も次第に確立され、関東地方では、撚糸文尖底土器が縄文土器の中でも最も古い形式となった。関東地方から西の九州に至る縄文時代早期には、捺型(おしがた)文土器と言って短い棒に刻み目を彫った施文具を器面に回転しながら付けた文様の土器で、底の尖った土器が広く分布していたが、関東地方から北東の北海道では貝殻文尖底土器が分布していた。 北海道では現在のところ貝殻文尖底土器より古い型式の土器は発見されていない。住吉町遺跡などの漁猟の発達は、網用の縄紐の存在をすでに示しており、縄紐の太さも撚糸文に用いた太さ3ミリメートル程度のものがあったと考えられる。この縄紐の技術がやがて住吉町式土器の次の、梁川町式土器の文様原体に取り入れられる。 |
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