通説編第1巻 第2編 先史時代


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第2章 文化のうつりかわり
第1節 先史の時代」
1 先土器文化

日本の先土器文化

前期旧石器時代

北海道の先土器文化

2つの分布図

北海道の旧石器/大陸との相似

道南地方の旧石器/マンモスの狩人

道南地方の旧石器   P171−P172


上磯・″半次郎″発見のなぞの旧石器
 旧石器時代の函館は静かな自然の世界であった。海水面は現在よりも高く、亀田平野には古函館湾と呼ばれる海が深く湾入し、現在内陸となっているあたりには海水が満ちていた。横津岳から中山峠に続いて大千軒岳に伸びる山脈は、北は遊楽部岳に続き、渡島半島の尾根を形造っていた。北海道で最も南にある旧石器時代の遺跡は、八雲町から15キロメートルほど西に入った遊楽部岳の近くにある。大関遺跡、トワルベツ遺跡などがそれで、河川流域の段丘上にある。遺跡地域は山に囲まれた盆地状を成しており、遺跡からは石刃や石核、彫刻刀が出たり、剥片石器や偏平な槍先などが出土し、地点によって時期的な違いがわかる。道南では樽岸遺跡の次の時代に編年されるが、それより古い石器が上磯の戸切地川上流の林道14号地点から発見されている。昭和38年9月14日に、この地域の通称″半次郎と呼ばれる場所の第3紀の化石を落合治彦らが調べていたところ、硬質頁岩製の石核が発見された。これは重要な発見なので、その後上磯町教育委員会や上磯町郷土史研究会のメンバーと共に付近を調べたが、石片を2点発見しただけで、遺跡の主体を突き止めることはできなかった。
 旧石器文化の性格を見極めるためには石灰岩洞窟を発見することがポイソトになる。酸性土壌や普通の段丘上等では石灰質の骨などは溶解するか分解して形をとどめることなく姿を消してしまう。生活文化を知るのに条件のよい石灰岩洞穴は、人骨や動物の残骸がそのまま残り、石器時代人がどのような動物を捕食していたか、またどういう人種であったかを知る手がかりとなる。上磯町の戸切地川流域は石灰岩地帯であり、旧石器の洞穴が存在する可能性もあるため、その発見を目ざして北海道大学の探検部も数回調査に参加したが、戸切地川の支流に洞穴があることを聞き込んだだけで、確認することができず、調査を中断している。標高193メートルにある未踏の旧石器文化が解明されれば、より一層北海道石器時代人の源流が明らかになるであろう。

マンモスの狩人   P172−P173

 北海道の旧石器時代遺跡の分布には、2つのブロックがあったことは、本節で前に述べた。すなわち札幌低地帯と勇払原野を結ぶ線で遺跡の分布圏が二分されるが、最近縦長の石刃文化以前の時代で、ナイフ形石器を伴う文化が十勝の上士幌町と千歳市の三角山で発見され、又、すでに道南では樽岸の石器群にもナイフ形石器があって、これらと岩手県和賀郡大台野遺跡のナイフ形石器とを比較した結果、同じ系統の石器であることがわかった。ナイフ形石器は、日本の後期旧石器時代のうちでも古い時代のものであり、およそ2万年前のものと考えられている。千歳市の三角山、樽岸、岩手県の大台野を結ぶ文化圏を考えると、津軽海峡がまだ陸橋によって陸続きであったころ、地質学から見ると1万8000年前に海峡ができたといわれているので、海峡ができる直前ころに人類の交流があって、当時の函館はマンモスなどの動物とその狩人たちの通り道であったことがうかがわれる。

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