通説編第1巻 第1編 風土と自然


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第2章 地形・地質
第3節 函館市の地形発達史

富川層/段丘形成時代

富川層   P37−P38

 函館付近の新生代第3紀層の最上部を占める富川層(鮮新世)は、上磯町富川付近では北西から南東の走行で、北東に25〜35度の傾斜を示す。同じく水無付近でも北西から南東あるいは南北の走向で東に25度傾斜する。添山川の峩朗(がろう)付近でも富川層は北東から南西の走向で東に26度の傾斜をもち、陣屋でも同層は北東から南西の走向を示し、南東に32度の傾斜を表わす。大野町の大野川沿いの富川層も同じく東に傾斜しており、しかも東進するほど急傾斜となる。これらの事実は富川層が函館平野西部においていずれも東に向って傾斜していることを示す。
 函館平野(盆地)の東部では富川層が見出されないので、第3紀層と地形との関係は明らかでなく、小向良七(1956)の図示するごとく、断層によって形成されたかもしれない。しかし少なくとも盆地西縁は造盆地運動によって形成されたものと推定される。

段丘形成時代   P38−P40

 続いて函館付近は段丘形成時代に入るが、函館盆地周辺で報告されている最も古い段丘は七飯町の第1段丘(標高360〜460メートル)で、鈴木 国府谷(1964)によると、その堆積物は円礫と粘土から成り、礫の大きさは普通2〜5センチメートルほどであるが、中には50センチメートルあるいは2メートルに達するものもある。礫の間を埋める粘土は割合固く締まっており、石英の粒を多く含んでいるといわれる。便宜上この第1段丘を鳴川面と呼ぶこととする。鳴川面堆積物は鈴木 国府谷(1964)によると海成段丘と考えられているが、蒜沢(にんにくざわ)川を間にはさんで庄司(しょうじ)山対岸の石切場での観察によれば、横津岳下部溶岩の上に安山岩の亜円ないし亜角礫が大小不ぞろいに堆積している。礫の円形度も高くはなく、かつ分級度も悪く、ほとんど基盤の溶岩(安山岩)に由来し、他の岩種を見出さないなどのことからみて、海成段丘というよりは山麓斜面的なものとみられる。
 鳴川面の下位に鱒川面がある。鱒川面はその分布状態からみると河岸段丘として形成されたものと思われる。鱒川面の下には赤川段丘があり、これは鈴蘭丘面と中野町面に細分される。鈴蘭丘面は比較的安定した時代であり、その堆積物は背面では薄く、前面では泥炭や褐鉄鉱を伴う所からみて、潟湖あるいは湿地のような環境下に形成されたものと思われる。
 中野町面堆積物は場所により変化があり、段丘礫層を主とする所、礫層と砂層より成る所、礫層・シルト層・粘土層より成る所などの差が見られるが、いずれの場合も礫の円型度が高く、礫→シルト→粘土の堆積相を示す所があるということは、一部は少なくとも海進の過程において堆積したことを示している。これを中野町海進と呼ぶこととする。
 中野町海進に続いて海退があり、これによって中野町面の前面の崖が造られ、次いで日吉町海進により日吉町段丘が形成された。日吉町海進は関東地方の下末吉海進に相当するが、これは松倉川河口付近の同段丘礫層中に、基盤岩に由来した穿孔貝の跡を残す礫が包含されることや、国鉄五稜郭操車場北の同段丘堆積物の層相により裏付けられる。
 日吉町海進の後に再び海退があり、次の海進によって函館段丘が形成された。これは浸食段丘である。海退がこれに続いた。
 後氷期に入り、気候温暖化に伴う縄文海進があり、これによって再び古函館湾が形成され、その後の海退により沖積段丘が形成されたのであるが、縄文海進後海退の過程において海抜1.3メートル余の高さに海面の一時的停滞があった。
 古函館湾は各河川によって運ばれた土砂等により埋められて縮少していき、これに代って函館平野が形成された。函館平野(盆地)を形成した地盤運動の軸は、初め東側にあり、次いで西側に移り、造盆地運動は現在もなお継続している。
 以上の結果を表にすると次のようになる。(mは標高)
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